ほたるのようなやさしい光で川を照らす街、ほたるまち。

川のほとりのこの街の名前を考えているとき与謝蕪村の俳句をみつけました。
「淀船の 棹の雫も ほたるかな」
かつて淀川やこの堂島川にもほたるが舞っていたのでしょう。
本物のほたるの光をここに呼び戻すことは不可能なのかもしれません。
でも、かつて川とともにあったものを心に思い出すことはできるはずです。
きらびやかな光ではなく、ほたるのようなやさしい光で川を照らす街になって欲しいと思い「ほたるまち」という名前をつけました。
ネーミング:道面 宣久(どうめん のりひさ)TUGBOAT2/コピーライター
2008年5月、大阪・福島区に誕生した「ほたるまち」。
堂島川の緩やかなカーブに沿って、中之島のパノラマが眼前に広がるこの街は、
都心にありながら自然の光と風を十分に感じることができる素晴らしい環境にあります。
さまざまな目的を持った人々が集まり、安らぎ、交流する街づくりとして、
「文化・情報を発信する」「水辺に人のにぎわいを呼ぶ」「都心に快適に居住する」という
3つの機能を備え、これまでになかった新しいタイプの都市空間を創り出しています。
ロゴデザイン
ほたるまちのネーミングはTUGBOAT2のコピーライター道面 宣久氏、そしてロゴデザインはFLAMEのアートディレクター古平正義氏によるものです。
この土地の歴史
大阪(大坂)が「天下の台所」と呼ばれた江戸時代、中之島周辺には全国諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいました。ほたるまちの位置には、中津藩、長岡藩、秋田藩などの蔵屋敷があり、当時の茶碗や人形が出土しています。中津藩の蔵屋敷では福澤諭吉が生まれています。
明治時代になって官庁や学校用地、大正時代からは長く病院(のち大阪大学医学部附属病院)として市民に親しまれましたが、1993年の阪大病院移転後、空地の状態が続きました。
「ほたるまち」誕生
2003年、阪大病院跡地の再開発について「“水の都”復活につながる、魅力的な水辺のまちを創造する」という方針が定められました。UR都市機構が翌年にかけて行った事業企画コンペで事業者が決定し、「水都OSAKA αプロジェクト」として街づくりがスタートしました。そして2008年5月2日、「ほたるまち」が生まれました。
福沢諭吉生誕地の碑
敷地内の福沢諭吉生誕地の碑は、初代は昭和4年(1929年)1月に建てられた高さ3.3mの円柱鋳銅製のものでしたが、戦時中に撤去されました。現在の碑は、朝日放送前に昭和29年(1954年)に造られたもので、「福沢諭吉誕生地」の文字は、1933年〜1947年まで慶応義塾塾長であった小泉信三氏の書です。
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